序 章

①私の自己紹介をお知らせしておきます。

横浜市西区昭和6年10月出生、
当時は、昭和戦争、所謂、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争終結となるが、特に、昭和恐慌の頃に育てられ、初誕生を迎える前から、大泣きしてる赤子だったようで、真冬の大雪の日、父親から雪中へ投げ捨てられたと母親から聴かされた。爾来、私は、父親を憎しみ、俺は、性欲の副産物と自分に言い訊かせておりました。

アナキスト? 

戦時の軍事教育を受けてきた為か、私のこを正義派でアナキストと批判されてるよした。ただ、他人様から信頼されるような人生観で、苦境で四苦八苦波乱万丈ながら、一重に私の座有の銘【人助けを忘れる事勿れ】

との信念でこれ一重に高齢ながらも燃焼して

おります、

③急死した旧友のこと

急性心不全で逝去した唯一の旧友の子息(喪主)から、古びた1冊の大学ノ―トを手渡され、私宛てに綴られた、彼のオピニオン的雑書きが私宛ての遺書のような気がしだしたのです。

その一部を紹介いたしましましょう。

 

④忘れもしない横浜大空襲

 

昭和20年の5月29日横浜大空襲は、昼間にアメリカ軍によって横浜市中心地域に対して行われた無差別爆撃でありました。B-29爆撃機517機・P- 51爆撃戦闘で、爆弾、焼夷弾で襲撃してきた。当時の私は旧制中学1年に入学したばかりの頃でしたが学徒動員令で擲弾筒ずくりの軍需工場へと徴用されて厳しい環境にありました。多分、午前10頃でした。

現在はみなとみらいに属していますが、当時、工場構内の真向の三菱重工横浜船渠株式会社のドツクに日本の空母が傾いて入っていたのですが、P51の爆撃戦闘機が日本の空母を目掛けて爆弾を投下するも外れて海中へと大飛沫を立てて、落下し綺麗な虹が、日本の空母を包む様に現象し、いつしょにこの情景を眺めていた親友のK君が思わず「ワアッ!綺麗だなあ!」と歓声を挙げたら我々の背後にいた陸軍憲兵(曹長)が、「貴様!今何と言つた!この非国民奴が!!」と怒号して日本刀の鞘先でこずかれあまりの痛さに失神してしまい、懲らしめられた憲兵曹長を怨むような遺書を書き残しで自殺したと両親から聞かされた次第でありました。今この悲しい思い出が、未だに俺の心に根ついております。
ウッチャン!」憲兵曹長の野郎にお灸を徹底的に惨殺したい!!
:(駐:ウッチャンとは、私の呼び名)
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